如来の優しさ 人の優しさ

日高組 西法寺(静内町) 小 菅 善 雄


 最近「優しさ」ってなんだろうと考えることがあります。

 優しくしてもらったときは「うれしい」という思いがありますね。それに対して人に優しくしてあげたときは何となく「気持ちがいい」ものです。
 しかし、してあげたときの気持ちがやっかいなんですね。

 そこには「自己中心」の思いがついて回ります。

 してあげたときの「気持ちがいい」(人によって様々な感じ方がありますが)というのは、どこかに「優越感」に浸っていることがあるかもしれません。
「してやった」「助けてやった」等々、そう考えているのは何を隠そうこの「私」なんです。

 どこまでいっても私にとらわれる、これを「我執(がしゅう)」といいます。

 我って一体何? それは、私が私が・・・私の私の・・・といった自己中心の思いであります。
 自分にとって都合のいいことは真っ先に「私が」「私の」と自分のものにしようとしますし、逆に自分にとって不都合なことになると「君が」「おまえが」と人に押しつけてしまうのではないでしようか。

 本願寺第八代御門主、蓮如上人の「御一代記聞書」には「人のわろきことはよくよくみゆるなり、わが身のわろきことはおぼえざるものなり(後略)」
(浄土真宗聖典註釈版1293頁)とお諭しくださっておられます。
 
 私たちは、様々な人間関係の中でどうしたら自分がよく見られ、よく思われるかとの思いが出てしまい、知らず知らずのうちに人のことを省みず自分を優位に立たせています。

 阿弥陀如来の智慧と慈悲はそういう私の姿を気づかせ、私のいのちはあらゆるいのちとのつながり、生かされているいのちであること、そしてどのようないのちにも優劣などなくそれぞれが、かけがえのないいのちであることを教えてくださっています。
 
 あらゆるいのちを等しく救おうとされる如来に照らされ、つつまれて、お互いの違いを認め合い、敬いあう。
 「御同朋」という言葉には、喜びや悲しみをともにする朋(なかま)との出遭いの喜びと優しさを感じさせるものがあります。






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