お盆によせて

空知南組  報恩寺   辰 田 真 弥


  最近のご法事で感じることがあります。それは、ご法事がただの「食事」に変わっていないだろうか?ということであります。

  【お経は短く・・・お説教も短く・・・お膳を豪勢に・・・】

  これでは法事になりません。法事の『法』は『仏法(仏様のみ教え)』であり、御縁の深い方をお招きし、一同に会して仏法の大事なところを聞かせていただくのです。

  また法要ともいいますので、仏法の肝心要を聞かせていただくのです。法事が終わった後のお斎(トキ=食事)は、あくまで二義的に付属するものであります。

   私たちにとって、亡き方は仏様であります。すなわちこの境涯(キョウガイ=身のおきどころ、さかい)で仏になる道を聞き、いのち終わって阿弥陀様がご用意下さってあるお浄土に生まれ、弥陀同体の悟りをもって私たちをお導き下さる、お念仏のはたらきそのものであります。

  ご法事では、その仏様のはたらきに『訪ねていく』即ち『聞いていく』営みこそが重要であります。お経をお勤めする意味は、その仏様のお徳を讃える時、人間の言葉では讃え尽くせません。

  ゆえに唯一、釈尊の仏説(経)をもって仏様のお徳を讃えます。お勤めの後には必ずお説教があります。法の内容を皆様にお伝えするためであります。

  中国の道綽禅師は『前に生まれんものは後を導き、後に生まれんひとは先を訪らへ。連続無窮にしてねがはくは休止せざらしめんと欲す・・・』と示されています。
  この境涯で先に生まれた者は、その人生を通して後の人々を真実の救いの道に導く義務があります。後の者は、その姿を通して、人生の苦しみや悲しみ、はかなさという現実に生きて下さる、仏様の救いに出会っていきます。

  そして先に仏様の国に往生された方は、弥陀同体の慈悲により私たちを真実の救いに目覚めさせ、後の者は先に往生された方を仏様と頂戴させていただく中に、手を合わせ頭を垂れて、その導きに訪ねていくのです。

  その営みが連続し尽きることがなければ、浄土へ連なるものも無量に導かれるのであります。この事が「仏法にあってね」と亡き人がご催促下さっている内容であります。

  亡き人は、そのいのち全てをかけて、老病死の現実を私たちに知らしめて下さいました。その道はそのまま私が往く道でもあります。老い・病・死を抱えながらにして、なお最後まで人間として人間らしく生き抜く力強い積極的な人生は、仏法に出会って初めて恵まれる喜びといただきたいのです。

  お盆を迎え、仏事について皆様と考えてみたいと思います。





青僧協ホームへ 北海道教区青年僧侶協議会